引き続き孟子にハマっている。
10代20代を振り返ると、自分自身よく「変人」とか「変わっている」と言われることが多かった(今はそうではなくなってきたが)ので、そこから、
孟子を読めば人生間違いないと思い、精読しては気になるところにどんどん付箋を貼っている。
今日は下巻からまた一つ紹介したい。長いけれど是非読んでいただきたい。
孟子の門人が尋ねた。
「先生、舜が天子で、舜の父が殺しをしたら、その処分はどうなるのですか。」
孟子は答えた。
「もちろん、捕まえるだけのことだ。いくら天子と言えども法を私(わたくし)にすることはできないのだ。
門人がまた尋ねた。
「ではこの際、舜はどうしたら良いのでしょうか。実の父が死刑にあうのを黙ってみていれば良いというのでしょうか。」
孟子は言われた。
「舜は天下を捨てることは破れ草履を捨てるくらいにしか思っていない。
天子の位を投げ打ってひそかに父を背負って逃げ、人知れぬ海辺にそって遠い辺境の地に行って隠れ住み、一生涯にこにこして父に仕え楽しみ、天下の事などは全く忘れてしまう事だろう。」
(「孟子(下)p365-366 小林勝人訳注 岩波文庫 1972年)
(※強調は私アカツキによるもの)
読んでいてどう思われただろうか?
この部分、新宿のカフェで読んだのだが、
…
えええええええええええ?!?!?!?!
…と、感じた。
確かに、親は掛け替えのない存在だからということはわかるけれど、天下を捨てることは容易いというのは、どうもなんというか、納得いかない。
世のため人のための仕事よりも何よりも、実の親に仕えること、親を悲しませないことが大事だというのだろうか?
うーん。
もちろん親がいなければ自分という存在はあり得ないわけだから、親を大事にするということは分かりますけれども…
しかし、極端すぎやしないか?
うーん、うーん。
こう思うのは、自分自身が親孝行ということをそれほど意識していないからだろうか。
前半の「法を私にしてはいけない」ということはよくわかる。
後半はしかし、なんというか、ドラマチックすぎる。
この章句についてはまた機会を設けて考えていきたいが、それにしても孟子は面白い。