同性愛の是非は置いといて、世界の流れから考えても、またおっさんずラブの大好評具合を考えても、制度として同姓婚は必ず認めるべきでしょう。
同性愛者、つまりLGBTの方はそのマイノリティー感を誰にも相談できず、最悪のケースとして自らの命を絶ってしまうことが少なくないと言う。
「生産性がない」とのたまわった政治家もいたが、社会としてそもそも制度構築がなされていなければ、LGBTではないひとにとっても生きづらい社会となってしまうのではないだろうか?
わたしはヘテロセクシャルでLGBTとはほど遠いが、LGBTの方は13人に1人いるとのことだ。
ということは学校のクラスでいったら2、3人はいてもおかしくはないということ。
それは確かにマイノリティーと言えるかもしれないけれど、そんな彼彼女らが人生の大イベントとしての結婚ができないというのは、社会的な存在として認められていないということと同義ではないだろうか?
だからこそ、制度として同姓婚は直ちに構築すべきだ。
・・・ただ、個人的には同性愛ということについては、どうしても未だに理解ができない。
自分が一度も同性を「性的に」好きになったことがないからかもしれないし、そうなることを私自身どうしても「気持ち悪い」と思うからかも知れない。
同性って、まずなんというか、「同じニオイ」だから、それについて嫌悪感を感じざるをえないのではないか?
近親相姦がおこりにくいのは、兄弟同士で「同じニオイ」があって、それが受け入れられないからではないかと思う。
しかし、同性愛の人にとってはむしろ「同じニオイ」がいい、ということなのかもしれない。
私からは信じられないが、そういう場合もあるのだろう。
ニオイ、というのは動物レベルの感知だから、もしかしたら同性愛者の方というのは、男と女、との違い以上に、異性愛者と「差」があるのではないだろうか。
そうであるからこそ、LGBTは長年社会において理解されなかったのではないだろうか。
また、同性愛というのは生まれてからそうである、という方もいらっしゃると思うけれど、環境で同性愛に変わるというケースもあるように思う。
男子校や女子校などのホモソーシャルにいると、その中でも「女性的な」あるいは「男性的な」同性がいるであろう。
そのようなホモソーシャルにおいて自分自身の性的志向が決定され、それが生涯を通じて貫徹されるということがあるかもしれない。
つまりは10代の狭い範囲でのソーシャルが、その後の社交性を決定し、それがまた性的志向をも決定してしまうということがあるのかもしれない。
私は中、高ともに共学であった。
高校入試の際、もっと上の高校(しかし男子校)を目指せたが、当時中三の私は頑として共学校進学したいと思った。理由はもちろん、
「女子がいるから。」
ということだ。
自分の話になってしまったが、LGBTについてはやはり理解が難しいけれど、今後も考えていきたい。