私は「書く」ことが好きだ。
人としゃべることももちろん好きだが、書くことに関してはおそらく常人の域を超えて好きである。
というのも、断続的ではあるが小6の頃から日記を書き始め、かれこれ15年以上、個人的に、誰からも強制されない形で、好きなスタイルで「書く」ということを続けてきたからであり、また周囲で日記やBlogを書き続けているという人を聞いたことがないから(ひょっとしたらいるのかもしれないけれど)。
なので、これからもこのBlogを始め、「書く」ということはきっとこれからもずっと続けていくつもりだ。
それにしても、なぜ私がこれほどまでに「書く」ことに取り付かれているのか?をこの度考察したい。
オイゲン・ヘリゲルが「弓と禅」において、自身の師匠がこのように語っていた。
「私が弓で的を射たのではない。「それ」が射たのです。」
また、棟方志功は版画への思いをこう語った。
「私は、版画によって自分が化け物にされてほしいと思うがために、版画に向かうのであります。」
「私が描いたのではない、版画がそれをえがいたのです。」
これらの言葉を最初聞いたときは理解ができなかったが、しかしなにかとても重要で、かつ自分自身にものすごく関係が深い言葉であると感じた。
これら言葉から、弓や版画だけでなく、「書く」こともそうなのではないか? と思う。
私はこのBlogや学生時代に論文を書いていたとき、最初からこれこれを書こう!と100%決まってから書き始めることはない。
大体は見切り発車で、書いていくうちに題材が頭に浮かび、手が、指が自然と動き始める。
そして書き終わったとき、書かれたそれらは、書き始める前には決して予想だにしなかった題材が登場し、かつ自分でも納得いくような、ビックリするような論考となっていることがある。
そうだ、「書く」というのは、自分の思っていることを表現するという代物ではなく、「書く」が、自分に憑依し、書かせるという、主体性が欠けた受動的なるものではないだろうか。
もしもそもそもの始めから書きたいことが頭の中にあり、それをただ書くだけでは、今までの世の中には文筆家という職業は存在しなかったのではないだろうか。文筆家に限らず、漫画家、画家、音楽家など、全ての芸術家もそうだろう。
始めからあったものをただ形にするのであれば、作家本人は何も面白くないし、むしろ形にする必要がなく、作家自身の頭の中で愉しんでいればそれでいい。
そうではなく、「書く」こと、あるいはすべての「創りだす」という営為は、自分が未だ出逢ったことのないような、なんだかとてもあやふやだけれど、すんごく面白そうで、ワクワクするような何かに出逢いたいがために行われることではないだろうか。
つまり、「書く」ということは、新しい何かに出逢うこと、あるいは誰も知らない未来にいくことではないかと思う。
作家は、それが楽しくて、あるいは楽しみでたまらないからこそ、「書く」ことをやめないのではないか。
この、「書く」に乗り移られる感覚はとても楽しく、自分以外の誰かになることができるのだ。
だからそこ太宰治は時に女性になったり、
視覚障害者になったりすることができたのだ。
「書く」はまた、レヴィナスがいうところの「内存在の我執の超脱」(des-intéresse-ment)*1とも言えよう。
「書く」以前、つまり書きたいこと、表現したい思いが未だ形となって現れていない状態は、内存在の我執(intéressement)、排他的自己愛ともいえる。
また、思い、うっぷんを溜め込んでいる状態も内存在の我執(intéressement)ともいえ、それはいずれは戦争をも呼び起こすとも、レヴィナスは言っているのだ。
「書く」ことで形にしてこそ、雲が氷となってそれを握れ、砕くことが可能となるように、雲が雨となって大地を潤すように、「書く」は、マイナスをプラスにすることができる。