最近、というかここ1、2年でずーっと考えていることがある。
プライド、について、である。
プライドというと、確か岡田斗司夫氏か、内田樹氏かは忘れてしまったが、
プライドって、「オレはお前とは違うんだぞ。」ってことですよね。
という言葉を想起する。
そして、プライドについて一番衝撃的だった言葉は、作家の藤沢数希氏の以下の言葉である。
衝撃を受けた。
この言葉から、以下のようなメタ・メッセージ(言葉の中に隠れているであろう、言葉にならない想い)があると、感じられた。
「プライドというか、意地というか、体裁というか、そういうものを第一に置いていると、肝心なものを得ることができず(あるいは失ってしまい)、
結局そのまま人生が終わってしまうよ。
日本は恥の文化で、生きて恥をさらすよりも、死んで名を残すことが美徳という文化が未だにあったりするけど、
死ぬことほど悪いことはないよ。
美よりも実をとろうよ。」
と。
また、プライドというのは、 仏哲学者のエマニュエル・レヴィナスにおける「内存在性への我執」(interessement)ともいえるだろう。
それはともすると戦争、紛争を引き起こすものであり、だからこそ「内存在性への我執の超脱」(des-interressment)が、他者への架け橋となる、とレヴィナスはいう。
プライドは、それがあることによってまた、自分らしさであったり、自分が学問や仕事に向き合う上での指針や羅針盤となり得るであろうが、
人間関係においてあまりにプライドを持ち出すと、藤沢氏が言うように、少し生きづらくなるのではないか、と思われる。
作家の小田嶋隆氏が、、クリエイティヴ・ディレクターの岡康道氏との共著である、
「人生2割がちょうどいい。」
に、確か書いてあったが、
小田嶋氏は新卒で入ったAGFのメンバーとカラオケに行った際に、国歌斉唱をしたりし、またその際に、
「オレはお前らとこんなところでカラオケなんかしている場合なんかじゃないんだぞ。」
などと思っていたらしい。
その点について岡氏は満腔の同意を与え、また私も読んでいて「グッ」と来るものがあった。
以上のような想いは、表に出ると確実に嫌われる。
嫌われるが、こういう想いは共感できる。
決して表に出してはいけないし、言葉にも出してはいけない。
しかし、胸にひっそりとしまいこんで、それを(事が達成されるまで)誰にも話さない。か語らない。
そんな時は、しっかりと深く、深く根をはる時だ。
…いろいろと書いてきて、まとまりのない文となったが、要するにプライドは内面で温めるもので、外面に出すものではないのではないか、と思うのだ。