"この感情はなんだろう
無性に腹たつんだよ
自分を押し殺したはずなのに
バカげた仕事を終え
環状線で家路を
辿るクルマの中で
「全部放りたい」
「寝転んでたい」
そうボヤきながら
今日がゆっくりすぎる"
と、歌っているが、まさにそんな気分だ。
普段、私は殆どイライラすることはなく、精神は恒常的であるのだが、『これほどまでに』イライラ、むかむかするのは、なんだかこれは身体からの(或いは霊的な?)シグナルなのかもしれない。
ある時を境に、私は「人に対して怒る(キレる)」ことをしなくなった。
ある時、ある人に対して怒り、嫌味なことを言おうとした時、頭の中の神経が
「グニャン!」
と、ひん曲がったような感がし、また絶望的なまでに胃が
「グサッ!」
とくる感がし、それ以来、一つの生き方、作法、或いは戦略として、「人にキレない」ことを徹底的に心がけてきて、またほぼ100%相手に非がある場合でも、自分が責任をとって、
「これはオレが悪かった、ゴメン」
と、率先して謝ることを心がけてきた。
しかし、ここにきて、どうもその生き方が、今の自分と比して「スケールの大きい」ものかもしれない、と、振り返って思う。
この生き方は、私が尊敬する西郷隆盛の、
"人を相手にせず、天を相手にして、
己を尽くして人を咎めず。
我が誠のたらざるを尋ねるべし"
という遺訓に依っている。
それから2年近く経った。
今でも「他者に責任をなすりつけず、自己が率先して『取りに』いく」ことはこころがけているところであるが、ここにきてそれが身も心も負担になりつつある感がある。
西郷の「器」と、私の「器」を同一視したのが、いうなれば「アホ」だったのかもしれない。
やれやれ、ふぅ。これは一つの挫折である。
ただ、これで終わるアルテマ(このblogの筆者)ではない。
基本的に私はかなり楽観主義で、自分が大好きである。
上司から叱責を受けても、「なにくそ!」と思い、精神はほぼ動じなくなった。
これは、社会人になる前に比べたら、間違いなく「胆力」がついた、といえよう。
しかし、周囲の他者たちの、大して衝撃的でもない対応が積み重なった程度で「イライラ」「むかむか」するのは、まだまだ自分は「小粒」であり、「器の小さい」男だなぁ……と、思わざるを得ない。
それでも、私は人生に大きな期待をしているし、絶対にこれからもっともっと「楽しく」なる、と、心の底から信じている。
思想家兼武道家の内田樹氏は、
「生きるということは、流れる時間の中を生きる、ということである」
と語った。
確かに私の今日の「この一点」だけを見れば「不遇」或いは「不幸」といえようが、流れる時間の中ではあまりにも瑣末なものであるに違いない。
…blogを書いているうちに、イライラやむかむかが、ある程度であるが、治ってきた感がある。
「『書く』とは何か?」
を生涯の主題としたが、思うに、『書く』とは、副作用のない精神安定剤となりうるのではないか、と思われた。
とりあえずしかし、「イライラ」「むかむか」したら、早く寝るに限ると思うので、もう寝ます。
おやすみ the world.
(…最近、「blogを書くのは面倒だなぁ」と、少しばかり思っていたけど、やっぱり「書く」ことで気持ちが整理されたりするから、これからも書き続けたいなぁ、と思いました。(^_^)