今日という日は上司と彼女に怒られた(注意された)日だった。
上司には、私が自社の商品知識不足の点について、
「・・・ぶちのめすよ?」
と、真顔で、かつ低いトーンで言われた。
一方彼女には、
「冷凍庫のハーゲンダッツのカスタードの方を食べたらコロすからね?」
と、明るいトーンで言われた。
どちらの「忠告」にも共通することとして、私に精神的危害を超えて肉体的危害を及ぼす「予告」であることは間違いない。
しかし、これらの「忠告」の根本にあるものは、所謂「愛のようなもの」*1ではないだろうか。
「・・・ぶちのめすよ?」とは何か?
上司の、私に対する「ぶちのめしたい」という感情、これは「脅し」を利用して、早く一人前になってほしい、という「愛のようなもの」があることが推測できる。
また、実際に「ぶちのめす」という行為は、上司自身の拳を利用して私の身体をひたすら叩くという行為に違いないが、これは先ず以て上司自身の拳ばかりか社会的地位も怪我することとなり得ることは容易に想像がつく。
ただしかし上司はそれを覚悟の上で「・・・ぶちのめすよ?」といっているのである。
これは上司の「覚悟」そして「愛のようなもの」に、心から敬服せざるを得ない。
ともあれ、傍目から見ても、自社の商品について知識が浅い社員はお客様に迷惑を掛けること必至なので、反省し、より勉強しようと思う。
「冷凍庫のハーゲンダッツのカスタードの方を食べたらコロすからね?」とは何か?
上記したように、上司に怒られた帰り道だったが、まず自宅につき、それから彼女の家に行こうと電話をしたら、彼女はどうやら会社の人たちと飲みにいく予定が急にできてしまったようで、彼女が不在の家に行くことになった。
そこで彼女に私はこういわれたのだ。
「冷凍庫の中にハーゲンダッツ入ってるから一つ食べて待っててー! でも、カスタードの方を食べたらコロすからね?」
と。
今度の「忠告」は、すごい。
「ぶちのめす」どころの騒ぎではなく、これは殺害予告である。
彼女はどのようなニュアンスで「コロす」といったのであろうか?
この「コロす」にも、先の「ぶちのめすよ?」同様、「愛のようなもの」があるだろう。
しかし今度はその「愛のようなもの」の質的側面また量的側面は比べようもないほど、「大きな」ものだと感じた。
「・・・ぶちのめすよ?」には、ぶちのめされても死なない故に再起可能なため、そこには教育的側面があるが、「コロす」は再起不可能である。
「コロ」されたら「終わり」である。
もちろん、現代社会は法治国家なため、「コロ」す側も「終わり」である。
ここには「・・・ぶちのめすよ?」とは比較にならないほどの「覚悟」または「愛のようなもの」がなければ、決して発言できないことである。
以前、爆笑問題の太田光がこんなことを語っていたことが思い出される。
「僕のことを「太田氏ね」とネットに書くヤツにはがっかりするだけだけど、前に「太田殺す」とネットに書いて警察に捕まったヤツには、正直言って共感の念を抱いたね。」
「氏ね」と「殺す」の重み、責任、覚悟の違いを思い知った瞬間であった。
また、芦田宏直は、
「人間は、殺しうるもののみ、愛しうる。」*2
と語っている。
人を殺傷するという思いの裏には「愛のようなもの」がある、と思われた6月19日であった。