私はその箇所の予習をしっかりして臨んだ「つもり」であったが、研修者の方にはぼろっぼろに言われてしまった。
どう言われたかというと、
「君さ、全然予習してないでしょ。そんなんで僕ら研修者に見てもらうなんて、ハッキリ言って論外だよ。あのさ、先輩社員の人にその授業、一回でも見てもらった?」
と。
つまり、研修者の方が言わんとしていることは、ただ単にテキストとその説明の流れの把握だけでは全く「予習」とは言えず、板書練習、台詞の運び、どこでどう身振り手振りをするかとか、実際にどう「先生をやる」かまでやってきて当たり前でしょ、という事だった。
この点について、私は完全に甘い認識をしていた。
また、「教壇に立てばなんとかなる(する)」という、無根拠の自信(過信)が強すぎて、板書練習など、今回の箇所に関しては全くしてなかった。
「そこ」を、研修者の方に見抜かれてしまったのである。
また、私のその失態が、直属の上司である課長に伝わり、後に電話でこっぴどく叱られたのである。
「やることを全部こちらから言ってあげないとやらないの、キミ。ねぇ。あっ、そういえばさ、俺がこれ言うの2回目だよね? もう言わないからね。自分から動かないってことはさ、キミは自分を腐らせたいの?」
返す言葉がなかった。
私はただ謝るしかなかった。
やれやれ。
しかしこの叱責によって、自分が思ったより「指示待ち族」側だったことが発見できた。
叱責を受けることは気持ちのいいことではないが、視点を今よりも広げられたこと、弱点を知れることができたので、それはそれは安い買い物である。
いや、もはや買い物でもあるまい。
我々は上司から叱責を受けている瞬間も、給料が発生している。
上司から叱責を受けること、これは形而上学的にも(見落としていた「自分」の発見)、形而下的にも(現実的に、生きる糧となる「お金」が発生)それは『有難い』ことだと思った。