「殺すか、愛すか」
最近、本屋さんやカフェの店員さんとレジで対応してもらうとき、意識的に彼らの目を見るようにしている。
「目は口ほどにモノを言う」「目は心(魂)の出どころ」と言われるように、目は語らずして「語る」からだ。
私自身はついちょっと前までは、人の目を見るのが怖かった。
「怖い」というと誇張し過ぎであるが、「あんまり…ちょっと…なぁ。。。」という感じである。
そのような感情に加えて、今までの自分の経験から、相手の目を2秒以上見る場合は、相手に殺意を抱いているか、もしくは相手を心から愛しているか、という場合だった。
つまり極端なことを言えば、「殺すか、愛すか」という状況においてしか、相手の目を見続けるということはできなかった。
いま振り返ってみれば、あまりにも極端であるので、考え直し、今は誰の目も、できるだけ積極的に見るようにしている。
ちなみに、人の目を見るのが苦手、であり、かつ見られるのがきつい、というのは、「視線恐怖症」という、立派な(?!)病名があるのだ。
「…私も以前はそうだったのか・・・?」
と、振り返るが、私は昔も今も、人間が大好きである(ヘテロ・セクシャルであるが)。
ぶっちゃけると、顔フェチである。
…いや、正確に言うと目フェチだ。
人と目を合わせるのが苦手でありながら、目フェチなのは、自分でも不思議に思う。
しかし、そのような矛盾性、葛藤を抱いて生きることも大事ではないかな、なんて自己弁護する。
自分語りが長くなって申し訳ない。
そういえば、ある経営者がいうところには、M&Aを実行する上で、買収される予定の側のデュー・ディリジェンス(略してDD)を行う場合、いくつか見るべき重要な点があるということだが、その中で、
「経営者の目つき」
というのがあった。
他に書いてあったことは全て失念しまったが、この点だけなぜか覚えている。
経営者の言葉遣いでも、態度でも、身なりでもない。
目つき、それである。
その点についての根拠など全く明示されていなかったのだが、なぜか私はその点について心から納得してしまった。
それから、「目」に対する苦手意識が私の中で薄れていった感がある。
「見る」とは何か?
人は、人と話し始めるまでもなく、人の目を見ること、目が合うことは、その人と私はその瞬間、「無関係ではいられない」(non-indifference)状況に、入る。
「なにメンチきってんのや?」とすごんでくるワイルド・ヤンキーがいたとしたら、その一瞬前に私は彼(彼女)と「無関係ではいられない」状況に入っていたのだ。
人を見る、特に目を見るという営為は、「対象を観察する」ということではない。
その営為は、「その人と無関係ではいられない瞬間の始まりを告げるもの」である。
それは恋かもしれないし、戦争かもしれない。
或いは────