ここ3ヶ月ほどずぅーっと、城山三郎の小説を読んでいる。
そして今は先のBlogで触れた、城山三郎が石田禮助について書いた、『「粗にして野だが卑ではない」石田禮助の生涯』(文春文庫 1992年)をまた読み返している。
今回はこの書に登場する、石田の親友、石坂泰三について触れたい。
石坂泰三の『愛』
石坂泰三(1886~1975)は第2代経団連会長に就任し、高級官僚や首相にも卑すること屈することなく、『財界総理』と呼ばれた気骨の人である。
城山三郎はその石坂も小説に書いている。
そもそもなぜ、このような本を読んでいるかというと、先ずTwitterでHONDA創業者である本田宗一郎(1906~1991)のbotをフォローしていたら、関連して「メザシの土光さん」こと土光敏夫(1896~1988)のbotを発見し、その言葉に感銘を受け、土光さんの本を読もうと思ったのが始まりだ。
それが以下である。
ここで土光さんに城山三郎がインタビューしているが、その点以上に、土光さんが「私が尊敬している人は石坂泰三さんだ」と語っているところに「ぴん」ときて、石坂泰三を次に探し求めるにいたった。
そして先に挙げた「もう、君には頼まない」に、石田禮助が登場しているのだが、その人物の描写から、非常にユニークな人柄であることに興味をまた抱き、目下のところ、「粗にして野だが卑ではない」を読んでいる訳である。
その他の城山文学にも親しんだが、個人的に読んでいていちばん「グッ!」とくるのは「粗にして〜」である。
城山三郎の筆致、文体が「粗にして〜」で最も「くる」ということもあるかもしれないが、石田禮助の、その人柄に、なぜかどうしようもなく共感、同調してしまうのだ。
思いっきり脱線した。
石坂ではなく、石田について書いてしまっていた。
「粗にして〜」で登場する石坂の描写について、あまりにも感動してしまったので、そこを引用したいと思う。
経団連会長就任直前のころ、石坂の家を夜間訪ねた毎日新聞経済部記者武石和風は、
「まあ君、ぼくは妻に先立たれたから淋しくてネ。慰問に来てくれたようなものだ。ゆっくりして行ってくれ」
と、いきなり言われ、
「ぼくの妻知っているかネ。よい妻だったよ。君、奥さんを大事にしなさいよ。妻はいいもんだよ」
たたみかけられた上、
「写真を見ていってくれるかね」
二階の居間に案内された。
そこには、三月前に亡くなった夫人の大きな写真が置かれ、ハワイの花や弔電などがいっぱい飾ってあったままになっていた。
石坂はまたつぶやく。
「いい女房だったよ」
武石は感嘆して記す。(武石和風『堂々たる人』講談社文庫)
「七十歳のお爺ちゃんが、大恋愛中の青年に見えた」*1
感動した。
と、いうよりかは、読んでいて微笑ましくなってしまい、ニヤニヤッとしてほころび笑いをしてしまった。
この、武石に対する「おもてなし」の根本にあるものは、石坂の、妻に対する絶対的な、永遠なる『愛』の賜物であるに違いない。
昔のなんらかの商品のキャッチコピーで、
『愛』だね。
と、いうものがあった(らしい)が、まさにそのコピー通りの思いを抱いた。
自分自身がどんなに偉くなっても、またどんなに年をとっても、悠久の恋心を抱き続けること。
BUMP OF CHICKENの藤原基央は名曲『supernova』において、
「本当の存在は、いなくなってもここにいる」
と、唄ったが、これも石坂の『愛』とつながるものがある。
いなくなってもいる人。見えなくても見えるもの。聞こえなくても聞こえるもの。
そのよう人やものに向かうベクトル、矢印、志向性にこそ愛があり、また愛の本質は片想いである、と、石坂泰三から教えられた思いであった。