昨日、大学時代の友人と会った。
いつも通り元気であって、それは大変喜ばしいことだと思われた。
昨日はまたひとつ、友人の「作法」についての新発見があった。
彼はある分厚い専門書を読んでいたのだが、しおりとして、その本の帯を使用していたのだ。
これには大変衝撃を受けた。良い意味で。
私は本の帯を始め、CDを買ったときについてくる帯(これも帯でいいのかな?)をどうにも「スパァッ!」と、にゃかにゃか捨てられないたちであって、小中高時代はわざわざセロファン・テープで止めて読んでいた。
それもセロファン・テープが極力目立たない形で。
そこまでしといて、大事な本の中身などに関してはすっからかんだったりする。
「…「実」よりも「花」を重視してどうすんねん!」って、今振り返って思ふ。
そんなことをもう十年も続けていたら、今回、その友人における帯の活用法を発見した。
これは、なんとも頭のいいやり方である、と思われた。
帯を捨てることなく、しおりとして活用しているというあり方。
ただこれは、帯をカヴァーからとっている点、装釘美としてはダウンしてしまうところであるが、それを実利的なるものへ昇華しているという、「美から実へ」という進化をとげさせているところに、彼のブリコラージュ的知性を感じた。
またひとつ、学びを得たのであった。