『僕らは死んでも芝居で食うぞ』
私たちはずっと演劇をやっていましたが、仲間の中で自信のない人たちは、当時できたばっかりのテレビ業界にみんな行きましたね。ただ僕は…「死んでも芝居で食うぞ」と(自分に誓いました)。
ここで氏が「死んでも芝居で食うぞ」と語った時、右手の人差し指で自身の鼻の下をこすり、照れ臭そうに語っていたシーンが大変印象的で、よく覚えている。
おそらく氏はこの思いはあまりに青臭くて人様に言うようなことでは、本来ないことであるから、そのように照れ臭そうに語ったのではないか、と今振り返って思う。
しかし、そのような氏の「気概」が、現在の氏を氏たらしめていることは間違いない。
「死んでも芝居で食うぞ」。
この思気概は、植物に例えれば花に当たるものではなく、根っこにあたる部分である。
そういうものは人に見せるものではない。
しかしその根っこは、その人自身をその人らしくさせているもの、つまりその人の「生きる意味」、あるいは「本質」である。
そういうものは、本当のところは教えられるものではない。自分自身で見つけ出して、心に銘記して、決して朽ち果てらせてはいけないものなのだ。
気概。
そういう、当たり前のものを、浅利氏の語ることから教えられた、いや思い出させていただいた感がある。
浅利氏の役者論
また、浅利氏はその番組で、劇団員に以下のような叱咤激励の言葉を投げかけている。
舞台を一千回演って飽きるようじゃ、役者、やめろ。
この言葉を劇団員に投げかけた際、彼らは静まり返り、周囲は緊張感を漂わせていたが、彼らの目は、目ばかりは、大きく開き、またキラキラとしていた場面があったことが思い出される。
ここで氏が言わんとしていることは、「同じ舞台など一つとしてない。」という信念ではないかと思う。
毎回同じセリフ、同じ動きをするものだとしても、100%「同じ」であることはあり得ない。
そして観客もその時その時で違い、また自身の体調も常に異なるだろう。
そのような、どんな微細な変化をも楽しめ、そして自身の演劇に昇華できる者こそが、役者として本物だ、と、浅利氏は上の言葉で言いたかったのではないか。